7月24日の未帰還機6機

愛媛県愛南町の馬瀬山頂にある紫電改展示館。
ここに展示してある紫電二一型「紫電改」は
1945年7月24日に、呉に空襲するため出撃した米機動部隊を迎撃すべく大村基地から出撃した
三四三航空隊所属の紫電改約20機のうち
未帰還となった6機のうちの1機である。

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1945年、米機動部隊は呉への2回目の攻撃として、

7月24日に再度空襲を行なった。

日本側は長崎県に拠点をおく、当時の日本航空部隊の精鋭が集まった三四三航空隊であった。

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米機約200機が空母から発進した。
この発進を確認した日本軍は三四三航空隊の紫電改約20機で大村基地から迎撃に向かった。

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豊後水道にて会敵、そのまま空戦になった。

 

その結果

米軍は16機の損失、日本軍は6機の喪失であった。

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未帰還6機

三四三航空隊の未帰還機搭乗員は以下の通りである。


鴛淵孝少佐
武藤金義中尉
初島二郎飛曹長
米田伸也飛曹長
溝口憲心上飛曹
今井進上飛曹


鴛淵孝少佐は戦闘七〇一飛行隊の飛行隊長であり、米軍の記録では午前10時15分頃に鴛淵孝機と思われる、白色の胴帯を描いた指揮官クラスの機を撃墜したとある。


武藤金義中尉は、空の宮本武蔵と言われるほどの実力者で、グラマン12機編隊に対したった1機で攻撃をし、2機撃墜という戦果を挙げるほどだった。
だがこの戦いにおいては未帰還となった。

 

不時着した1機

豊後水道にて空戦をしている最中、愛媛県の南部にある久良湾に日の丸が描かれた1機の飛行機が不時着した。

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地元の人の証言によると
『その日は、兄のお葬式の準備をしており、いきなり山の方から大きな音を立てて飛行機が落ちるように飛んできました。』


『日の丸を確認し、助けないかないと!とカッターを漕いで助けに行ったけど間に合わなかった。
人のかたちはあったけど動く気配はなかった。』

と証言している。


話を総合すると、湾の東方向から紫電改は低空で侵入し、綺麗に着水し100メートルほど滑って後、機首から沈んでいった。
その時、搭乗員は空戦中にて致命傷を負ったのか動く気配はなかった。

実はこの日、

その湾の近くの海沿いに、日本軍搭乗員と思われる、上半身しかない遺体が発見されたそうだが詳細は不明である。

沈没後、

憲兵がやってきて家へ帰るように促されたとのこと。おそらく紫電改は当時、新鋭機で軍の極秘機密であったため公になるのを避けるためだったと思う。

 

33年後の発見

紫電改が沈没してから、33年後の1978年11月。
地元の漁師がイカリを落としてしまい、捜索のため潜ったところ水深40メートルの砂地に奇妙なものを発見した。
飛行機である。その後の調査で、紫電改であることがわかった。

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紫電改の引き揚げ


発見から翌年の1979年7月14日に
大勢の人が見守る中、34年ぶりに引き揚げられた。
未帰還6機の遺族らがはこの紫電改を目にした時、涙を流した。大勢の人が花をそなえた。

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引き揚げられた後、コックピット内の調査では、遺骨は見つからなかった。
結局、誰が乗っていたかは分からなかった。
たが三四三航空隊所属のパイロット、笠井智一さんによると
『機体の操作はその人の癖がでるから、誰か乗っていたかはわかる。このことは墓までもっていく。』

とのことだ。


未帰還になった武藤金義の妻、喜代子さんは未帰還6人の共通の遺品とすべきとした。


その日、未帰還となった6人の勇姿は忘れてはいけない。

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この機体は現在、引き揚げられた久良湾のすぐ近くの、馬瀬山頂にある紫電改展示館にて永久保存されている。
引き揚げられた当時の姿をできる限り残したいとのことで、機体表面には劣化の跡が見受けられる。


この紫電改が不時着してから今年で76年が経つ。

76年前のこの日、本土を守るため、大切な人を守るため戦い、命を落とした人がいることを忘れてはいけない。


この紫電改は戦争、そして平和についてのそれぞれの思いを、見る人々に与え続けるにちがいない。

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